ザーサイ置き場


第一章

 その日は雨が屋根中を強く叩き続ける嫌な日でした。


私は母が憂鬱そうにため息をつくのを本を読みながらぼんやりを聞いておりました。父は一年の半分が出張で留守です。家の中は重たく湿気た空気で充満していました。あんまりにも息苦しかったので、私は窓を開けようかと座布団から立ち上がりました。


 チャイムが鳴ったのはちょうどその時でした。こんな時間(夕のご飯もすんで後は寝るだけでした)に訪ねてくるなんてどこの誰なのでしょうか。よほど常識の無い人なのでしょう。私と母は顔を見合わせて首を傾げました。母は億劫そうに編んでいたマフラー(恐らく私の為のものでしょう)を一旦机に置いて立ち上がって玄関へ行きました。


そんなの居留守でも使って無視していたらいいのに。なんとなく私も母の後ろを付いて行きました。母はセールスマンや宗教の誘いは断るのが苦手だったので、もしその類だったら自分が追い返してやろうと考えたからです。


 戸を開くとびしょ濡れの男が突っ立っていました。傘もさしていなくて異様な雰囲気です。これはセールスなんかより面倒そうだぞと考えていると母が小さく「Kちゃん……」と呟きました。 


Kちゃんの話は聞いたことがあります。確か遠くに(戦争だかなんだか)に行ったきり帰ってこない母の幼なじみです。でも母の言うKちゃんはとっくの昔に死んでしまっている筈ですし、目の前にいる男は母なんかよりうんと若く、もしかしたら自分と同じくらいかもしれないのです。そんな男がKちゃんであるはずはないのに男はさも当然そうに「久しぶり」と言ったのです。


「どうしたの、Kちゃん。こんな遅くに。寒かったろう」


「寒くはないよ。この時期の雨なんか全然」


「上がりなさい、Kちゃん。今拭く物持ってくるから」


バタバタと慌てて洗面所に行く母を背中で見送って自分はその男と向き合いました。じっとりとした湿った目です。雨に濡れた黒髪はてらてらと光っているようにも見えます。固く結ばれた唇と隈がちな目はまるで恐ろしい化物のようです。こんな男が母の幼馴染であるはずがありません。やっぱり、きっと、人違いなのです。


「あなたがKであるはずはないです。帰ってください」


「君は無闇矢鱈に人を否定するような人ではないだろうに」


「いいから出て行ってください」


「理由がない。俺には追い出される理由なんてない。Tが招いてくれているんだ。帰る理由なんてどこにある?寧ろ今帰った方が失礼極まりないと思うがな」


フンッと低めの鼻を忌々しげに鳴らしてこちらを睨みつけてきました。こちらは唖然として言葉が出ません。どうしてこの男は母の名前を知っているのでしょうか。いや、よくよく考えてみれば標識に書いているので誰でも分かることでした。ハッタリをかまされたような気分になり、ますます自分はこの男を追い出したくなりました。


「Kちゃん、拭く物持ってきたわよ。早うお上がんなさい」


パタパタと洗面所から戻ってきた母がさも当然のように言いました。私は上がらないで欲しかったのですが、こんなにも嬉しそうな母はここ最近ずっと見ていなかったので母の前ではなんにも言えませんでした。


「それじゃあ、お邪魔するよ」


Kの振りをする男は自分に見せつけるようにわざとらしく上がり込みます。私は悔しくってキッと睨みつけましたが、母はそれを見て何を思ったのか恥ずかしげに「ごめんなさいね、この子はずっと前から人見知りが激しくって」と言いました。そうではないのです。自分は人見知りなんかじゃないのです。母は大きな誤解をしています。母をこの男から守ろうとしているだけなのです。


 男は居間に入ると同等と、さも自分の家でもあるかのように座布団に座ると静かに足をくつろげました。その態度にもひどいいらつきを覚えます。なんて傲慢な男なんだろう。母は、そんな男に昔の話を話し出します。他愛のない思い出話です。ですが私は占めたと思いました。こんな他愛のない話だとしても男がKでない限りわかるわけがないからです。


「Kちゃん、あなたの家にいた彼のことは覚えている?」


「あぁ、覚えているよ。彼の鏡を割ってしまったことも、彼の妹のこともね」


「彼、どこに行っちゃったのかしらね。Kちゃんの家が潰れてしまってから、随分探したんだけれどどこにもいないのよ」


なんということなのでしょう。会話が成立してしまっているのです。男がKでない限り(なんせ自分も知らないような話ですから)ありえないのです。もしかしたら彼は本当に本物のKなのでしょうか。だとしたらKはなぜ生きているのでしょうか。なぜ若いままなのでしょうか。なぜ今頃帰ってきたのでしょうか。


私がじっと見ていることに気がついたのか、Kは私の方を横目で見て作り物のような笑みを浮かべました。